二人の作品の狭間に、私は浮遊する 宇野和幸×瓜生剛「Landscape to Perceive」9/4-16/2015

宮田 徹也(日本美術思想史研究)さんがこの展覧会の論考を書いてくださいました。

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二人の作品の狭間に、私は浮遊する 宇野和幸×瓜生剛「Landscape to Perceive」9/4-16/2015

ギャラリー睦で、宇野和幸と瓜生剛の二人展が開催された。二人に共通するのは「風景を描くこと」、それだけである。宇野はミクストメディアと和紙による大型作品を4点、小品を9点、瓜生はキャンバスに油彩の大型作品を4点、小品を8点出品した。

睦は三つの展示室を保有する。入り口のルーム1には瓜生の大型作品が並ぶ。「風景」を描いているのだが、リアリズムの強調よりも色彩豊かな画面は、光に満ち溢れているように感じる。無論、具体的な形を明確に捉えていることは前提である。

瓜生の部屋を通り抜けると、宇野の大型作品が展示されているルーム2となる。和紙の柔らかい感覚が、角度によって見る者を包み込んでは突き刺していく。赤と黒の抽象的なラインが、見果てぬ風景を形成する。そこに具体性がなくとも、現実は在るのだ。

二つの部屋を戻って入り口を出ずに右に抜けると、ルーム3に到達する。大きな窓から零れる自然光はいつも美しいのだが、それに負けず劣らず、二人の小品が点在し、それぞれの異相を放っていた。二人の作品は似て非なるものでも、時代を背負う点で同質だ。

3つの部屋を行き来すると、突如、瓜生の「影」が強調されたり、宇野の単色が「複合」されたりと、それぞれの作品が持つ側面が浮かび上がってくる。個展では体験できない視点の発見は、見る者より本人たちのほうが楽しい筈である。

すると二人に共通する「風景」とは何かといった疑問が立ち昇ってくる。二つの眼が並んでいるという人間の視覚の生理的特徴である水平線を求める風景と、上昇と落下を夢想する垂直の風景、それに伴う光と影の風景、それを逆転する知覚する風景が浮かび上がる。

そのように「風景」を見る私は何者なのか。本当にそこに「風景」はあるのか。メルロ=ポンティは語る。「「何ものでもないもの」や「空虚」こそが世界の充実を可能ならしめる。己の空無性を支えるために、世界を必要とする」(『見るものと見えないもの』)。

広大に拡散する「風景」は、遠くに及ぶとみえなくなり、消滅する。メルロ=ポンティは続ける。「世界とは、或る意味では私の身体の延長に過ぎない」(『同』)。私は世界であり、世界は空無である。宇野と瓜生の作品の狭間に、私はこのように浮遊した。
宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

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